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人格

【日常性】écrit

 最近はもっぱら紙のノートに書き付けている。紙のノートだと、どうしても昔ブログに書いていたときとは違ったものになる。何の装飾もない文章。わかりやすさであったり、箇条書きであったり、短さであるかもしれない。ノートという限られたスペースの中に、殆ど一回きりのように書くからには、なかなか修辞的に書くということが難しい。失敗したら書き直せず、長くなるので書く気にもなれない。思いつくのを待つのもまどろっこしく感じて、さっさと書いてしまう。非-修辞的な文章の群れ。

 

 ところで何をどうしようと、基本的には自分の文章に耐えられないのだが、書くということが何故かやめられない癖になってしまっている。辞めては戻ってきてしまう。

 

 このような文になったのは、紙のノートに書き付けていたことが原因かといえば、そうでもない。そうでもないというよりは、それだけではないといったほうがよいかもしれないが、それは全て、私が何も考えることができていないからということに由来するのだろう。私にとって考えるとは書くことである。しかし、紙に書きつけている間、考えているうちに入らないようなことしか書けないでいた。私は紙に書いて考えるということができないそういった類の人間なのかもしれない。こうしてキーボードを打つことが私にとって唯一考えるということなのかもしれない。それがこの最初の段落で書いていたようなものかもしれない。今もこうして書けないのは紙のノートのスペースの間隔や、わかりやすさにこだわっていたからではないということは、自分でもわかっている。修辞的な文章が現れるのは考えることに拘ることである。拘るというのは何も自分から拘るのではなく、呪われたかのように拘ることを強制される感覚である。こうしてブログに戻ってきた私は、やはり少し楽しいと思う。

 

 2022年は終わりかけている。修辞的な文章を取り戻せるように少しずつでもこうして「書く」ということを引き続きやっていこうと思う。兎に角、呪われなければいけないのだ。