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人格

ざつ記

2024。何か希望があふれているかのような数字に見える。過去の小さい心に映っていた煌びやかで無機質な未来の像の年号が、多分この辺りだったような気がする。

 

そんな未来とは全然関係のない現在。

生活は全然変わらないし、働き方は時代に逆行している。

 

 

未来は手に持っていた「ケイタイ」の画面がきれいになった程度で、あとはろくなものではなかったとでもいうのだろうか。それは誰のせいだろうか。全員のせいであり、つまり誰のせいでもないというのが結論だ。くだらないね。

 

閑話休題。昔、改行をしろと誰かに言われたので、改行を入れている。

 

川端康成の「みずうみ」を読んでいる。文章が流麗すぎて内容が全然入ってこないのがこの辺りの文豪の悪いところだ。その点で川端康成は群を抜いている。24ページくらいまで読んでさらに、40ページくらいまで読んで、その間の記憶がなくなるっては。何度も最初に戻って読んでいる。

別に尾行癖があるわけでもなんでもないが、桃井銀平の気持ちがわかってしまうのは、我々の性でしかない。

 

銀平が後ろをつけているあいだ、宮子はおびえてたいにちがいないが、自身ではそうと気がつかなくても、うずくようなよろこびもあったのかもしれない。能動者があって受動者のない快楽は人間にあるだろうか。美しい女は町に多く歩いているのに、銀平が特に宮子をえらんで後をつけたのは、麻薬の中毒者が同病者を見つけたようなものだろうか。

 

『みずうみ』川端康成(23頁:新潮文庫・1960)

 

私が川端康成に見ているのは安部公房との類似性である。

文体がまるで違うにも関わらず、川端康成安部公房を推している理由がわからない人がいるのかもしれないが、それは君たちが単にあちら側の人間であるからで、こちら側の人間ではないからである。

 

あけましておめでとう。君たち。

 

ところで、遠く、旅に出て、例えばそれは町の商店や、コンビニ、喫茶店の店員かもしれないが、もうこの人と二度と出会うことはないのだろうという気持ちになり、多分それは本当のことなのだ。

 



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